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1テモテ4章12節
「あなたは、年が若いために人に軽んじられてはならない。むしろ、言葉にも、行状にも、愛にも、信仰にも、純潔にも、信者の模範になりなさい。」
聖書の中に出てくる「信者の模範となった若い人物」の話。誰でしょうか?
シャデラク、メシャク、アベデネゴ
歴史的背景
時代
ダニエルがこの書を書いたのが紀元前530年頃~紀元前600年頃の話であると考えられる。
概略
現在のイラクのあたりを中心に広がる一帯にバビロンという王国が力を強めていて、ダニエルを含むこの3人のイスラエル人の貴族の少年たちは捕虜として連行されていた。彼らは健康で頭も良く、外見も美しいので、王の王宮に仕えるものとして養育した。
3人はこの世界を創造し、作られた唯一の神様を信じる。そして、この目に見えない神を信じ、恐れる青年達だった。バビロン王国ではネブカデネザル王という王が権力、地位、富を持っていた。
ネブカデネザル王はドラの平野に巨大な金の像を建て、(高さ30M、幅3M)みんなに拝むように命令しました。オーケストラが鳴り響く中、みんなは像に拝まないと行けません。
王は拝まない者がいたら、罰として投げ込む「燃える火の炉」を像の近くに立てていました。
しかし、彼らは金の像を拝むことはしなかった。そこで王は怒り彼らに「本当におまえ達は、この大合奏の中金の像に拝まなかったのか?拝まなかったのなら、おまえ達はこの燃える炉の中に投げ込まれる。どんな神も助け出すことはできない!」。
彼らは「はい、王様。私たちはそのことに関して言い訳はしません。しかし、私たちの神は燃える炉の中からでも私たちを救い出せます。もし、そうでなくても王様、わかってください。私たちはあなたの神々に仕えず、金の像は拝みません。」
そこで王はもっと怒って炉の熱さを7倍にした。そして、彼らは服を着たまま投げ込まれた。熱すぎる炉に、彼らを連れてきた者たちが火炎に焼き殺された。
王は「シャデラク、メシャク、アベデネゴ!そして、いとたかき神のしもべよ、出てきなさい。」
3人は頭の毛が焦げることもなく、上着もそのまま、火の臭いさえしなかった。
ネブカデネザル王は言った、
「ほむべきかな。シャデラク、メシャク、アベデネゴの神。王の命令を背いて、自分の身体を差し出して神に信頼し、自分の神以外の他の神に拝むことをしないこのしもべ達を救われた。それゆえ、この国で彼らの神を侮るものは手足を切り離されるであろう!」
u 神を信じる信仰に神様は応えられる
神様は「助け出して下さる」と信じるこの青年たちに答えられた。
そして、彼らは「そうでなくても、私は金の像を拝みません。」と王様に言った。
自分の命よりも、この天地を作られた神様との約束を守る彼らの潔さ。
例)オーストラリアで25Mの崖を命綱一本で登ったとき、命綱があるから、たとえ墜ちても死なない!と信じていたから最後の5Mのかけができた。結果、一番高く上れた。
u 苦難、難しい情況の中に大きなチャンスがある
彼らのいた情況はものすごい厳しかった。死ぬか、生きるかの選択だった。
私たちは人生の中で、本当に厳しい状況に立たされることがある。死ぬことと同じくらい苦しい情況だってあるかもしれない。この3人はまさにその情況だった。
もし、「拝む」ことを選択すれば・・・・
彼らの名は知られることが無かっただろう。王も、神を知ることが無く、人々も彼らの信じた神を知ることがなかっただろう。
彼らは「たとえ命がなくなっても拝みません」としたことで、
王は彼らの神がなさるわざを見、賛美し、彼らに対する信頼をまし、さらに高い位につけた。私たちの選択によって、苦しい情況を大きな人生のチャンスに変えることが出来る!
私たちを創った神様が、どんなときも守って下さることを信じる信仰はありますか?
苦難、辛い情況の中で私たちは何を選び取るでしょうか?
ローマ人への手紙
5:2
わたしたちは、さらに彼により、いま立っているこの恵みに信仰によって導き入れられ、そして、神の栄光にあずかる希望をもって喜んでいる。
5:3 それだけではなく、患難をも喜んでいる。なぜなら、患難は忍耐を生み出し、
5:4 忍耐は錬達を生み出し、錬達は希望を生み出すことを、知っているからである。
5:5 そして、希望は失望に終ることはない。なぜなら、わたしたちに賜わっている聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからである。
3. イエスはあなたに最高の祝福を与えたいと願っておられると信じよう。
愛する皆さん、知っておられましたか?ストーリーはここでは終わりません。
群集はただ与えられて食べただけではなく、なんと全員満腹になったのです。
イエスは彼らが家に帰る途中に弱り果ててしまわないように、ちょっとだけ与えたのではないのです。
イエスは彼らの空腹を満たしてあげたかったのです。
「わたしは麦の最も良いものをもってあなたを養い・・・」(詩篇81:16)
イエスが何かを与えられるときは常に最大の祝福を与えようとしておられます。
中途半端なものはありません。常に最高の祝福を与えたいと願っておられるのです!
主は意地悪なお方でも、ケチなお方でもありません。とても豊かで恵み深いお方です。
「…恵みとまことに満ちていた。」(ヨハネ1:14)
「じゃぁ、なぜ私の人生には不満や欠乏や不足がこんなにあるのだろう」って!?
わたしたちはある意味ではそれに慣れて満足してしまっているのです。
だからそれ以上求めることすらしないできたのです。こういう話を聞いたことがあります。
イエスは私たち一人ひとりのためにすばらしい家と蔵を用意されています。
ある男が天国に行ったときの話です。彼は用意された天の家を見て感動します。
そして、蔵を見るとたくさんのギフトラップに包まれた贈り物がたくさん、数えることもできないほど山積みにされていました。
イエスさまは彼に「これはお前に与えるはずだった贈物たちだよ。」と言われました。
男は納得できない顔で「どうして与えてくださらなかったのですか!!私はこれらが必要で、欲しかったのです!」とすぐに聞き返しました。
エスは彼に答えました、「お前が私に求めなかったからだよ」と。
「求めよ、そうすれば、与えられるであろう」(マタイ7:7) 「あなたの口を広くあけよ、わたしはそれを満たそう。」(詩篇81:10)
神さまはあなたに最高の祝福を与えたいと願っておられるのです。それを信じましょう。
そして、本当に信じるなら、求めて祈り始めるだけです。あなたはどのような「良いもの」を主に求めますか?
どれだけの祝福を求めますか?イエス様が与えようとされている最高の祝福を最大限にまで、祈りによって引き出そうではありませんか!
それでは皆さんにお聞きいたします。
この御言葉にあるイエスさまの姿を見て、私たちはどのようにお互いを尊ぶことを学びましたか?
① イエスさまはどんなときもまず弟子たち、群集の必要に目を留められます。
あなたは今、誰にどのような必要を見ますか?まず、お互いに目を留めることから尊ぶことを始めましょう。
神様が造られた一人ひとりがどんなにすばらしい存在であるかを知るようになるでしょう。
また教会にどのような必要を見ますか?そこが教会であなたの仕える場所になるでしょう。
② イエスさまは、その必要に対して必ず「何か」をなされます。
それは心から彼らを愛し、心配しておられるからです。
イエスは「あなたの手で食事をやりなさい」と言われます。
なぜなら、あなたの手には必ず与えられる「何か」があることを主は知っておられ、それを用いて御業をなされるからです。
そして、そうすることは主御自身を愛することでもあるのです。
一人ひとりが与えられたものを誰かの、もしくは教会の必要のために分け与えるなら、
お互いの存在の尊さがより分かり、お互いの存在を喜び合えるのではないでしょうか。
③ そして、主はあなたに最高の祝福を与えたいと願っておられます。
主は意地悪なお方でも、ケチなお方でもありません。とても豊かで恵み深いお方です。お互いの祝福を心から祈り、喜ぼうではありませんか。誰かの祝福が自分の祝福として喜ぶとき、その人の存在を尊んでいるのです。
最後に、私たちがこれらの真理を握り続け、イエスの模範に習って、お互いを尊びあうために、このすばらしいイエスさまに毎日出会ってください。お互いを尊ぶためのすべての必要な活力、喜びはイエスさまにあります。すべてのことにおいて、あなたを愛してやまないイエスさまに出会ってください。
この3つのことを信じ、いつも心にとめてください。
イエスはあなたを心から愛し、心配してくださっていると信じよう。アーメン!
イエスはあなたにして欲しいと願っていることがあると信じよう。アーメン!
イエスはあなたに最高の祝福を与えたいと願っておられると信じよう。アーメン!
お祈りいたします。
恵み深い天のお父様。あなたの揺るがない愛と恵みを心から感謝します。
イエス様、あなたがどんなときも私を愛し、心配してくださることを感謝します。
愛するために一人ひとりに与えられた賜物を感謝します。あなたの与えようとしている最高の祝福を感謝して受け取ります。アーメン。
もしこの中に、まだイエスさまを信じ受け入れてない方がおられましたら、あなたの愛のすばらしさをもっと知ることができますように。
ここにいる全ての方に、イエスさまは今日、「私のもとに来て重荷をおろしなさい。」と語られています。
どうぞ皆さん、今、共にイエスさまの前に進み出て、これ以上負う必要のない重荷をおろしませんか?
共に祈りのなかで重荷をイエスさまのもとに持って行きましょう。
2. イエスはあなたにして欲しいと願っていることがあると信じよう。
このところで、イエス様は群集に教え続けていましたが、気が付くともう暗くなり始めてきました。
その時、弟子たちは「もう遅いので、彼らを解散させて、それぞれ夕食を食べるように村々に行かせましょう。」とイエスに言いました。
弟子たちはこの場所に来た目的を思い出していたかもしれません。
もしくは、自分たちが一番お腹が空いていたのかもしれません。
しかし、イエス様はここで弟子たちに命じます、「あなた方が食事を与えなさい、」と。イエス様は人々の体の必要も忘れてはいませんでした。
彼らをお腹が空いたまま帰したくなかったのです。なんという愛でしょう。
そして、これは弟子たちへのチャレンジでもありました。
弟子は答えます、「200デナリ分のパンを買ってこいってことですか。無理無理。そんなお金もなけりゃ、そんなにたくさん売ってる店なんかありゃーしないさ。そんあ時間もありはしない。」 イエス様の命令にすこし呆れ顔の弟子たち。
イエス様は「パンはいくつあるか、見てきなさい」と弟子たちに命じます。
そこで行って探したのですが、弟子たちは5つのパンと2匹の魚を見つけるのがやっとでした。
かも、他の福音書によると少年の捧げ物だったのです。少年が食べて満足するくらいの量でした。
しかも、このパンはロールパンくらいの大きさであり、大麦で作ったパンで最も貧しい者の食物であり、一番安く、一番粗末なものだったのです。
ここで、3つの視点に注目してみましょう。1つは弟子たちの視点です。
弟子たちは群集を帰らそうとしたとき、それぞれ勝手に食事をさせたらいい、誰かがお世話するだろうと考えました。
自分の必要を見ていました。イエス様に食物を与えるよう言われたときは、「買うお金も、食物も持ってない」と、無いものを見ていました。
そして、少年が捧げたとき、「これが何の役に立つのか、5000人以上いるのに、これしかない・・」と思っていたのです。
彼らの答え方をみてください、「5つのパンがあります。それに魚が2匹・・・」、なんと失望に満ちた言い方でしょう。
他人まかせ、自分中心、不足感、不満足、これが弟子たちの視点でした。
2つ目は少年の視点です。弟子たちが「誰か食べ物もってませんか~?イエスさまが探してます。」と探し始めると、少年はそわそわし始めます。「どうしよう、こんな食べ物だけど・・」と少しためらいながらも、自分のお弁当をイエス様に差し上げようと決心したのです。
きっとこれがすべての人を満腹させるとは考えもしなかったでしょう。
ただイエス様に食べてもらいたかった、それだけだと思います。単純な気持ちです。
5000人以上の人々がいたのなら、きっともっと食物はあったでしょう。多くの人が自分のために隠していたかもしれません。
少年も隠すことができたかもしれない。イエス様は奪い取ることはなさらなかったでしょう。
しかし、少年はイエス様が食物を必要としていると聞き、ただ捧げたのです。イエス様の必要、これが少年の視点でした。
そして3つ目に、イエス様の視点です。イエス様はいつも人々の必要に目を留められました。
疲れて、休みにきたにもかかわらず、人々の必要を見て、教えられました。
夕方になると、腹ペコで人々を帰したくないと思いました。
誰かがするだろうではなく、イエス様は弟子たちに「あなたがしなさい」と言われました。
そして、弟子たちが無理だと思っているとき、「何があるか」探されました。そう、イエス様は知っています。必ずいつも何かあるのです!
あなたにも捧げることのできる何かがいつも必ずあります!
そして、イエス様はその「ある」ものを感謝し(捧げた者を感謝し)、用いて御業を成されるのです。
イエスは5つのパンと2匹の魚を手に取り、感謝し、パンをさき、弟子たちに配らせました。
そう、弟子たちにです。そう、私たちにです。イエスがあなたにして欲しいと願っておられることがあります。
毎日、誰かに対して愛を表すことを願っておられます。
「誰かがやるだろう。自分には何も与えるものはない」などとは決して思わないでください。
神さまがあなたにその必要を見せた以上、神様はすでにあなたに「何か」を与えておられます。信じますか?
それをパンをさいて配るように、自分の内からさいて与えるのです。イエスはあなたにして欲しいと願っておられることがあると信じましょう。
さて、今日の聖書箇所はイエスの奇跡の1つとして有名な5千人の給食の場面です。
たった5つのパンと2匹の魚で5千人以上の人を満腹させ、しかも12かご余るという奇跡でした。
これは全ての福音書に書かれていることから、とても重要なものであることがわかります。
奇跡の中の一つとして見過ごすにはもったいない箇所です。
私自身、とても多くの真理と原則を見出しましたが、その中から「どのようにお互いの存在を尊ぶか」をイエスの模範から学んでいきたいと思います。
私がいつも願うのはイエス様のようになりたいということです。
皆さんも同じ願いをお持ちですか?
もしそうなら、今日、この御言葉の真理があなたの心に留まり、その真理が私たちを「愛すること」の自由にしてくださると信じます。
イエスの揺るがぬ愛を受けている私たちの尊さを知り、お互いをより尊ぶ者へとさらに導かれますように願います。
1. イエスはあなたを心から愛し、心配してくださっていると信じよう。
すでに自分で抱えている重荷に気が付いてきている人もおられるかもしれませんが、問題は「それをどうしたらよいのか」ということではないでしょうか。
皆さんは悩みを相談するとき誰のところへ行きますか?やはり親身になって聞いてくれて、心配してくれる人のところでしょう。
イエスは「あなたの重荷をわたしにゆだねなさい」と言われますが、どうしてそんなことができるでしょうか!?
私たちがまず知るべき真理は「イエスはあなたを心から愛し、心配してくださっている」ということです。そのとき安心して、その重荷をおろすことができるのです。
マルコ6章の初めから読むと、イエスはこのとき故郷の人々に受け入れられなかった失望と、いとこの死の悲しみを経験していたことがわかります。
そんなとき弟子たちは経験してきた奇跡に興奮して、イエスにすべてのことを報告したのです。次から次へと、1人また1人と帰ってきてはすべて報告したのです。
イエスはきっと「ごくろうさん。あなたたちのよい働きをすべて知っているよ。よくやったね。わたしはとっても嬉しいよ」と優しいねぎらいの言葉をかけたんじゃないかなと私は思います。
そして、「さぁ、お前たちは十分な働きをしてきた。だからしばらく休息の時をもとう」とイエスはリトリート(休息のとき)を提案されました。
イエスご自身は失意の中にあったかもしれない、でもしっかりと弟子たちの必要を見て愛の配慮をなされました。愛するときに新しい力と喜びが与えられます。
なぜならその時、神様の愛に目を向けることができるからです。自分の問題、悲しみ、失意にばかり目を向けていると、私たちは周りの人の必要が見えなくなってしまいます。
神様の愛が分からなくなってさえしまいます。神様の愛をより深く経験し確認する方法は「隣人を愛すること」だと僕は確信しています。
どんなときでも「愛すること」を選び取るときに、あなたは神様の愛を同時に選びとっているのです。
そして、私たちの内におられる聖霊によってその力と愛がすでに注がれているのです。あなたは信じますか?
さてイエスと弟子たちは船に乗って、休息を求めて人のいないところへ出かけました。そう、人のいないはずのところへ。
しかし、着いてみるとそこにはすでに数千人という人々が待っていたのです!その時の弟子たちの反応はというと・・・想像できるでしょう。
開いた口がふさがらない、驚き、あきれた、怒りのような感情までも湧いてきたことでしょう。
しっかりと彼らの船出を見ていた人たちがいたのです。その船の方向から行き先までも予測して、出会う人みんなに伝えて、走って先回りしたのです。
いろんな町や村から人々はいっせいに駆けつけ、イエスの到着を待っていたのです!彼らは少なくとも10キロ以上は走り、先回りしました。
なんと空気の読めない人たちでしょう。なんとイエスさまへのいたわりと配慮のない人たちでしょう。
イエスに出会いたいと飢え渇いて、やってきた人々をイエスはどうなされたでしょうか。
まず彼らをじっと見つめられました。彼らの必要を見たのです。
そして、彼らをあわれまれました。これは単なる感情ではなく、積極的な助けとなりたいという同情であり、真実の愛です。
しかも、「深く」あわれまれたのです。これは他の場所では、よきサマリヤ人の話、放蕩息子の話(お父さんが息子を見つけたとき)のところに出てくる言葉です。
2人ともどうしたでしょうか?走りより、助けてやり、愛を示しました。
飼う者のない羊のような彼らを、ほっとけばすぐにちらばり神様から離れてしまうような彼らをあわれまれたのです。ご自身の悲しみや疲れなどは問題ではありませんでした。
哀れみ、愛の情熱に燃え、病人をいやし、教え始められたのです。神様がどのような方であるかを教えられたのではないでしょうか。
私たちにはまず「神様がどのようなお方であるか」を知り、私たちの持っている誤解を解かなければなりません。
そして、イエスさまは語ることを通してだけではなく、一緒に時間を過ごすことで具体的に神様がどのような方であるか、ご自身を通して悟って欲しかったのです。
私たちの人生にはたくさんの試練があります。そのたびに私たちはなぜ?と悩みます。ときには神様の愛を疑いたくなるような時もあるでしょう。
しかし、私はこう確信しています、神様がどのような方であるかを、身を持って悟るために試練があるということです。
それは、人生の証となり、その証は伝えたいという熱意に変わり、多くの人の祝福の機会となるためです。頭だけでは伝えられない、口先だけでは伝わらない。
しかし、人生に与えられる証は真実であり、力があります。 あなたは今日この弟子たちのように、毎日の仕事や教会での奉仕に疲れていますか?
この群集のように、自分の力では負うことのできないような重荷を抱えて、それをどうしたらいいかわからずに疲れていますか?
今日、イエス様はあなたに優しく語り掛けておられます。
「すべて重荷を負うて苦労している者はわたしのもとへ来なさい。あなたがたを休ませてあげよう。」(マタイ11:28)
イエスさまは今日あなたに重い荷物を背負ったまま帰って欲しくないのです。
罪悪感、不満、疲れ、悲しみ、疑い、寂しさ、恐れ、妬み、怒りなどの重い荷物。人生には、あなたには背負えない重荷があります。
「さぁ、その荷物をおろしなさい。あなたは負う必要のない重荷を背負っているのだよ。わたしが持ってあげるから」とイエスは語られます。
これ以上、背負う必要のないものを背負って旅を続けることはありません。
ゆだねることができる方、そう、あなたを愛し、心配し、あわれみ、助けたいと願っておられる方がここにいるのですから。
イエスさまはあなたを心から愛し、心配してくださっていることを信じましょう。
「あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。」(1ペテロ5:7)
ハレルヤ! 今日、わたしはメッセージをするために多くの準備をしてきました。
この荷物の量をみてください。何が入っているかというと、まずいろんな訳の聖書。
皆さん違った聖書をお持ちでしょうからね。そして、水。喉が渇きますから。
枕。私のメッセージを聞きながら眠りに落ちてしまうとんでもない人がいるかもしれませんから。
ジャンパー。途中で寒くて集中できなくなったら大変ですからね。
携帯電話、鍵、ウォークマン、非常食、パソコン、洗面道具・・・これを準備し、ここまで運んでくるだけでとても疲れてしまいました。
そしてこれを背負い続けてメッセージしなければならないなんて、なんて大変なことでしょう。このメッセージを最後までできるか不安でなりません。
え?「じゃぁ、それをそこにおろして。もっと気楽にしればいい」って!? では私もあなたに同じことを聞きましょう。
「あなたも荷物を抱え込んでいるんじゃないですか?どうして抱え続けているのですか?」あなたは言うかもしれない、
「私はこのまぬけな説教者のように多くの荷物なんて抱えてはいない。こんなに身軽で来ているんだ」と。
しかし、私が聞いている荷物は実は心の中にある重荷なのです。
罪悪感のスーツケース。不満のリュックサック。恐れのトランク。疑いのショルダーバック・・・
あなたも今日、私のように必要のない重荷をたくさん背負ってはいませんか?
「すべて重荷を負うて苦労している者はわたしのもとへ来なさい。あなたがたを休ませてあげよう。」(マタイ11:28)
主は私たちが願いさえすれば、私たちの荷を軽くしてくださいます。今日皆さんが来たときよりもずっと身軽で帰ることができますように。
ただ手ぶらで、空っぽなのではなく、主の大きな愛と深い恵みが心の中に済んだ空気のように満ち溢れて帰ることができますようにお祈りいたします。