現在、大阪で牧師の働きをしているHide牧師(元旭川ナザレン宣教師)によるメッセージと
現在中高科の主任教師であるAyumi先生によるメッセージです。
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「イエスの愛・あなたの尊さ」 マルコ6:30~44 2007年6/17
さて、今日の聖書箇所はイエスの奇跡の1つとして有名な5千人の給食の場面です。
たった5つのパンと2匹の魚で5千人以上の人を満腹させ、しかも12かご余るという奇跡でした。
これは全ての福音書に書かれていることから、とても重要なものであることがわかります。
奇跡の中の一つとして見過ごすにはもったいない箇所です。
私自身、とても多くの真理と原則を見出しましたが、その中から「どのようにお互いの存在を尊ぶか」をイエスの模範から学んでいきたいと思います。
私がいつも願うのはイエス様のようになりたいということです。
皆さんも同じ願いをお持ちですか?
もしそうなら、今日、この御言葉の真理があなたの心に留まり、その真理が私たちを「愛すること」の自由にしてくださると信じます。
イエスの揺るがぬ愛を受けている私たちの尊さを知り、お互いをより尊ぶ者へとさらに導かれますように願います。
1. イエスはあなたを心から愛し、心配してくださっていると信じよう。
すでに自分で抱えている重荷に気が付いてきている人もおられるかもしれませんが、問題は「それをどうしたらよいのか」ということではないでしょうか。
皆さんは悩みを相談するとき誰のところへ行きますか?やはり親身になって聞いてくれて、心配してくれる人のところでしょう。
イエスは「あなたの重荷をわたしにゆだねなさい」と言われますが、どうしてそんなことができるでしょうか!?
私たちがまず知るべき真理は「イエスはあなたを心から愛し、心配してくださっている」ということです。そのとき安心して、その重荷をおろすことができるのです。
マルコ6章の初めから読むと、イエスはこのとき故郷の人々に受け入れられなかった失望と、いとこの死の悲しみを経験していたことがわかります。
そんなとき弟子たちは経験してきた奇跡に興奮して、イエスにすべてのことを報告したのです。次から次へと、1人また1人と帰ってきてはすべて報告したのです。
イエスはきっと「ごくろうさん。あなたたちのよい働きをすべて知っているよ。よくやったね。わたしはとっても嬉しいよ」と優しいねぎらいの言葉をかけたんじゃないかなと私は思います。
そして、「さぁ、お前たちは十分な働きをしてきた。だからしばらく休息の時をもとう」とイエスはリトリート(休息のとき)を提案されました。
イエスご自身は失意の中にあったかもしれない、でもしっかりと弟子たちの必要を見て愛の配慮をなされました。愛するときに新しい力と喜びが与えられます。
なぜならその時、神様の愛に目を向けることができるからです。自分の問題、悲しみ、失意にばかり目を向けていると、私たちは周りの人の必要が見えなくなってしまいます。
神様の愛が分からなくなってさえしまいます。神様の愛をより深く経験し確認する方法は「隣人を愛すること」だと僕は確信しています。
どんなときでも「愛すること」を選び取るときに、あなたは神様の愛を同時に選びとっているのです。
そして、私たちの内におられる聖霊によってその力と愛がすでに注がれているのです。あなたは信じますか?
さてイエスと弟子たちは船に乗って、休息を求めて人のいないところへ出かけました。そう、人のいないはずのところへ。
しかし、着いてみるとそこにはすでに数千人という人々が待っていたのです!その時の弟子たちの反応はというと・・・想像できるでしょう。
開いた口がふさがらない、驚き、あきれた、怒りのような感情までも湧いてきたことでしょう。
しっかりと彼らの船出を見ていた人たちがいたのです。その船の方向から行き先までも予測して、出会う人みんなに伝えて、走って先回りしたのです。
いろんな町や村から人々はいっせいに駆けつけ、イエスの到着を待っていたのです!彼らは少なくとも10キロ以上は走り、先回りしました。
なんと空気の読めない人たちでしょう。なんとイエスさまへのいたわりと配慮のない人たちでしょう。
イエスに出会いたいと飢え渇いて、やってきた人々をイエスはどうなされたでしょうか。
まず彼らをじっと見つめられました。彼らの必要を見たのです。
そして、彼らをあわれまれました。これは単なる感情ではなく、積極的な助けとなりたいという同情であり、真実の愛です。
しかも、「深く」あわれまれたのです。これは他の場所では、よきサマリヤ人の話、放蕩息子の話(お父さんが息子を見つけたとき)のところに出てくる言葉です。
2人ともどうしたでしょうか?走りより、助けてやり、愛を示しました。
飼う者のない羊のような彼らを、ほっとけばすぐにちらばり神様から離れてしまうような彼らをあわれまれたのです。ご自身の悲しみや疲れなどは問題ではありませんでした。
哀れみ、愛の情熱に燃え、病人をいやし、教え始められたのです。神様がどのような方であるかを教えられたのではないでしょうか。
私たちにはまず「神様がどのようなお方であるか」を知り、私たちの持っている誤解を解かなければなりません。
そして、イエスさまは語ることを通してだけではなく、一緒に時間を過ごすことで具体的に神様がどのような方であるか、ご自身を通して悟って欲しかったのです。
私たちの人生にはたくさんの試練があります。そのたびに私たちはなぜ?と悩みます。ときには神様の愛を疑いたくなるような時もあるでしょう。
しかし、私はこう確信しています、神様がどのような方であるかを、身を持って悟るために試練があるということです。
それは、人生の証となり、その証は伝えたいという熱意に変わり、多くの人の祝福の機会となるためです。頭だけでは伝えられない、口先だけでは伝わらない。
しかし、人生に与えられる証は真実であり、力があります。 あなたは今日この弟子たちのように、毎日の仕事や教会での奉仕に疲れていますか?
この群集のように、自分の力では負うことのできないような重荷を抱えて、それをどうしたらいいかわからずに疲れていますか?
今日、イエス様はあなたに優しく語り掛けておられます。
「すべて重荷を負うて苦労している者はわたしのもとへ来なさい。あなたがたを休ませてあげよう。」(マタイ11:28)
イエスさまは今日あなたに重い荷物を背負ったまま帰って欲しくないのです。
罪悪感、不満、疲れ、悲しみ、疑い、寂しさ、恐れ、妬み、怒りなどの重い荷物。人生には、あなたには背負えない重荷があります。
「さぁ、その荷物をおろしなさい。あなたは負う必要のない重荷を背負っているのだよ。わたしが持ってあげるから」とイエスは語られます。
これ以上、背負う必要のないものを背負って旅を続けることはありません。
ゆだねることができる方、そう、あなたを愛し、心配し、あわれみ、助けたいと願っておられる方がここにいるのですから。
イエスさまはあなたを心から愛し、心配してくださっていることを信じましょう。
「あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。」(1ペテロ5:7)
さて、今日の聖書箇所はイエスの奇跡の1つとして有名な5千人の給食の場面です。
たった5つのパンと2匹の魚で5千人以上の人を満腹させ、しかも12かご余るという奇跡でした。
これは全ての福音書に書かれていることから、とても重要なものであることがわかります。
奇跡の中の一つとして見過ごすにはもったいない箇所です。
私自身、とても多くの真理と原則を見出しましたが、その中から「どのようにお互いの存在を尊ぶか」をイエスの模範から学んでいきたいと思います。
私がいつも願うのはイエス様のようになりたいということです。
皆さんも同じ願いをお持ちですか?
もしそうなら、今日、この御言葉の真理があなたの心に留まり、その真理が私たちを「愛すること」の自由にしてくださると信じます。
イエスの揺るがぬ愛を受けている私たちの尊さを知り、お互いをより尊ぶ者へとさらに導かれますように願います。
1. イエスはあなたを心から愛し、心配してくださっていると信じよう。
すでに自分で抱えている重荷に気が付いてきている人もおられるかもしれませんが、問題は「それをどうしたらよいのか」ということではないでしょうか。
皆さんは悩みを相談するとき誰のところへ行きますか?やはり親身になって聞いてくれて、心配してくれる人のところでしょう。
イエスは「あなたの重荷をわたしにゆだねなさい」と言われますが、どうしてそんなことができるでしょうか!?
私たちがまず知るべき真理は「イエスはあなたを心から愛し、心配してくださっている」ということです。そのとき安心して、その重荷をおろすことができるのです。
マルコ6章の初めから読むと、イエスはこのとき故郷の人々に受け入れられなかった失望と、いとこの死の悲しみを経験していたことがわかります。
そんなとき弟子たちは経験してきた奇跡に興奮して、イエスにすべてのことを報告したのです。次から次へと、1人また1人と帰ってきてはすべて報告したのです。
イエスはきっと「ごくろうさん。あなたたちのよい働きをすべて知っているよ。よくやったね。わたしはとっても嬉しいよ」と優しいねぎらいの言葉をかけたんじゃないかなと私は思います。
そして、「さぁ、お前たちは十分な働きをしてきた。だからしばらく休息の時をもとう」とイエスはリトリート(休息のとき)を提案されました。
イエスご自身は失意の中にあったかもしれない、でもしっかりと弟子たちの必要を見て愛の配慮をなされました。愛するときに新しい力と喜びが与えられます。
なぜならその時、神様の愛に目を向けることができるからです。自分の問題、悲しみ、失意にばかり目を向けていると、私たちは周りの人の必要が見えなくなってしまいます。
神様の愛が分からなくなってさえしまいます。神様の愛をより深く経験し確認する方法は「隣人を愛すること」だと僕は確信しています。
どんなときでも「愛すること」を選び取るときに、あなたは神様の愛を同時に選びとっているのです。
そして、私たちの内におられる聖霊によってその力と愛がすでに注がれているのです。あなたは信じますか?
さてイエスと弟子たちは船に乗って、休息を求めて人のいないところへ出かけました。そう、人のいないはずのところへ。
しかし、着いてみるとそこにはすでに数千人という人々が待っていたのです!その時の弟子たちの反応はというと・・・想像できるでしょう。
開いた口がふさがらない、驚き、あきれた、怒りのような感情までも湧いてきたことでしょう。
しっかりと彼らの船出を見ていた人たちがいたのです。その船の方向から行き先までも予測して、出会う人みんなに伝えて、走って先回りしたのです。
いろんな町や村から人々はいっせいに駆けつけ、イエスの到着を待っていたのです!彼らは少なくとも10キロ以上は走り、先回りしました。
なんと空気の読めない人たちでしょう。なんとイエスさまへのいたわりと配慮のない人たちでしょう。
イエスに出会いたいと飢え渇いて、やってきた人々をイエスはどうなされたでしょうか。
まず彼らをじっと見つめられました。彼らの必要を見たのです。
そして、彼らをあわれまれました。これは単なる感情ではなく、積極的な助けとなりたいという同情であり、真実の愛です。
しかも、「深く」あわれまれたのです。これは他の場所では、よきサマリヤ人の話、放蕩息子の話(お父さんが息子を見つけたとき)のところに出てくる言葉です。
2人ともどうしたでしょうか?走りより、助けてやり、愛を示しました。
飼う者のない羊のような彼らを、ほっとけばすぐにちらばり神様から離れてしまうような彼らをあわれまれたのです。ご自身の悲しみや疲れなどは問題ではありませんでした。
哀れみ、愛の情熱に燃え、病人をいやし、教え始められたのです。神様がどのような方であるかを教えられたのではないでしょうか。
私たちにはまず「神様がどのようなお方であるか」を知り、私たちの持っている誤解を解かなければなりません。
そして、イエスさまは語ることを通してだけではなく、一緒に時間を過ごすことで具体的に神様がどのような方であるか、ご自身を通して悟って欲しかったのです。
私たちの人生にはたくさんの試練があります。そのたびに私たちはなぜ?と悩みます。ときには神様の愛を疑いたくなるような時もあるでしょう。
しかし、私はこう確信しています、神様がどのような方であるかを、身を持って悟るために試練があるということです。
それは、人生の証となり、その証は伝えたいという熱意に変わり、多くの人の祝福の機会となるためです。頭だけでは伝えられない、口先だけでは伝わらない。
しかし、人生に与えられる証は真実であり、力があります。 あなたは今日この弟子たちのように、毎日の仕事や教会での奉仕に疲れていますか?
この群集のように、自分の力では負うことのできないような重荷を抱えて、それをどうしたらいいかわからずに疲れていますか?
今日、イエス様はあなたに優しく語り掛けておられます。
「すべて重荷を負うて苦労している者はわたしのもとへ来なさい。あなたがたを休ませてあげよう。」(マタイ11:28)
イエスさまは今日あなたに重い荷物を背負ったまま帰って欲しくないのです。
罪悪感、不満、疲れ、悲しみ、疑い、寂しさ、恐れ、妬み、怒りなどの重い荷物。人生には、あなたには背負えない重荷があります。
「さぁ、その荷物をおろしなさい。あなたは負う必要のない重荷を背負っているのだよ。わたしが持ってあげるから」とイエスは語られます。
これ以上、背負う必要のないものを背負って旅を続けることはありません。
ゆだねることができる方、そう、あなたを愛し、心配し、あわれみ、助けたいと願っておられる方がここにいるのですから。
イエスさまはあなたを心から愛し、心配してくださっていることを信じましょう。
「あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。」(1ペテロ5:7)
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