現在、大阪で牧師の働きをしているHide牧師(元旭川ナザレン宣教師)によるメッセージと
現在中高科の主任教師であるAyumi先生によるメッセージです。
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Youth Worship Message May 21, 2006
「キレてはならない関係!?」ルカ15:11~24
挨拶
ハレルヤ♪旭川でもやっと桜が満開になったね~。例年よりもだいぶ遅い気がするけど、満開の桜を見てホッとしました。でも、最近暑くて、なんか春よりも先に夏を感じてしまってたりもするけど・・・(笑)
そして今日も熱い聖書のメッセージに耳と心を傾けていきたいと思います★日差しで体は暑くなるけど、心は暑くはならない。だけど、聖書のメッセージはこの心を熱くします!!
朗読
ルカ15:11~24 「放蕩息子のたとえ話」
序論
今、誰かとケンカしてる人いませんか?今はしてなくても、何度かはみんなしたことがあるでしょ?そのとき、ケンカのきっかけって何だっただろう?
そして、今回復したい、和解したい関係ってある?きっとケンカした後って、できれば仲直りしたいって思うよね。でもなかなか自分からは言い出せないし、謝れない。そんなときってあると思うんだ。でも僕はこう思う。相手が来るのを待っているよりも、自分から歩み寄ったほうがよっぽど早い!!ってね。そのとき、苦しさ、痛みを感じるかもしれない。それでも関係は早く回復されるべきものだと思うんだ。だって生きていく中で人が一番悩み、苦しみ、また幸せを感じるのは関係からだからね。みんな「つながり」を求めているんだ。
「キレル」という言葉が一般的に使われるようになったのはこの10年以内だけど、これは感情が切れているという状態ではなくて、決して切れてはならない関係までもが切れてしまっている現実なんだ。それが、生きるうえで、あらゆる関係に影響を及ぼしている。
今日、さっき読んだ聖書のストーリーから、この決して切れてはならない関係があることを見ていきたいと思います。そして、僕たちがまず一番に回復、和解すべき関係がそれなんだ。
本論
このストーリーをもう一度、簡単に話しましょう。
「昔むかし、あるところに金持ちの人がいました。その人には2人の息子がいて、お兄さんの太郎はまじめでお父さんの言うことをなんでも聞く人、弟の次郎はというと怠け者で楽に、そして自由に生きたいと、いつもそればかり考えていました。
ある日、次郎はいいアイデアを考え付きました。それはお父さんの財産の自分が相続する分を今すぐもらって、自由に生きることでした。お父さんは今財産を与えたら、次郎がどうなるかわかっていました。しかし、しきりに頼むで財産の半分、1億円を与えたのです。すると、彼はたちまち荷物をまとめて、都会へと旅たち、自分の生きたいがままに自由に生きたのです。めでたしめでたし・・・とはいかず、後先考えずに友達におごり、金をばら撒いて女と遊んでいるうちに、あっという間に1億円を使い果たしてしまいました。しばらくするとひどい飢饉が起こり、食べ物がなくなってきました。お金がなくなると友達もいなくなり、豚小屋で働くしかなくなりました。豚のエサでさえ食べたくなるほど腹が減り、みじめな自分に悲しくなり、こんなはずではなかったと後悔するばかりでした。
ある時、腹を空かせ豚のえさを見ていると、自分の家のことを思い出しました。「あ~わが家には雇い人でさえ食べ物があまっているのに、自分は・・・。」彼は本心に立ち返って、するべきことを決めたのです。「家に帰って父に謝ろう。そして、息子としてではなく、雇い人としてでもいいから家に入れてくださいと頼もう。」
家が遠くに見え始めると、一人の人が家の方から走りよってくではありませんか。腹ペコでくたくたの次郎は確認する力もありません。しかし、その人は彼に走りより、抱きつき、「息子よ!」と言ったのです。そう、それはお父さんでした。次郎は言おうと思ってたことを言い出すと、父は途中でさえぎり、僕に最上の着物と、指輪と、靴とを用意させ、パーティーの準備をさせたのです。父は帰ってきた息子を「息子」として受け入れたのです。父は毎日毎日、窓からのぞいて息子の帰りを待っていたのです。父はこんな弟息子を愛し、受け入れたのです。」
このストーリーは実は、僕たち全員が回復すべき関係についてのたとえ話なんだ。このお父さんは天のお父さん、つまりすべてを造られた神様(これについては前回お話しましたよね!?)を表していて、その息子は僕たちを表している。
結論
ぼくたち人間はすばらしいもの(僕たちのために造られたすべてのものも含めて)を与えられているのに、そして、すばらしい存在として造られたのに、それに気付かず、欲張り、天の父から離れて生きている。これを聖書は罪と言っているんだ。僕たちを造った神様から離れて生きるということは、造られた目的から離れて生きるということでもある。この罪のせいで僕たちは最高の自分として輝いて生きられないでいる。本心に立ち返り、自分がどんな存在であるのか気付くべきなんだ。どんなにすばらしいものを与えられているか気付くべきなんだ。そして、僕たちを造ってくれた天のお父さんのもとへと戻るとき、どんなに愛されていたのかはっきりとわかるんだよ。
この決してキレてはならない関係を回復するためにイエス・キリストは来たんだ。僕たちは彼を通してしか天のお父さんのところへは戻れない。僕たちが悔い改めて、父のもとに戻りたいと願うなら、イエスの十字架が橋渡しをしてくれる。イエスを救い主として心に迎えるとき、僕たちは天のお父さんのもとにもどれるんだよ!!
招き
天のお父さんはあなたを愛しているよ。あなたが帰ってくるのを待っているよ。愛する息子・娘として受け入れてくれるよ。そのままの君を待っているんだ。自分で一生懸命にきれいなって、立派になってから帰らなくていい。今のままでいいんだよ!!天のお父さんが最高の着物と指輪と靴を用意してくれているんだから!!その道をイエスが用意してくれているよ。十字架の愛と赦しによってね!
これはとてもすばらしいことなんだよ!あなたが本来あるべき自分、愛されているすばらしい自分、輝いている自分になるために天のお父さんのもとに帰る必要があるんだ。そして、そうすることは人生において最高の決断だと言えるんだ!だから、あなたもぜひ立ち返って、神様=天のお父さんのもとへ戻ろう!
「キレてはならない関係!?」ルカ15:11~24
挨拶
ハレルヤ♪旭川でもやっと桜が満開になったね~。例年よりもだいぶ遅い気がするけど、満開の桜を見てホッとしました。でも、最近暑くて、なんか春よりも先に夏を感じてしまってたりもするけど・・・(笑)
そして今日も熱い聖書のメッセージに耳と心を傾けていきたいと思います★日差しで体は暑くなるけど、心は暑くはならない。だけど、聖書のメッセージはこの心を熱くします!!
朗読
ルカ15:11~24 「放蕩息子のたとえ話」
序論
今、誰かとケンカしてる人いませんか?今はしてなくても、何度かはみんなしたことがあるでしょ?そのとき、ケンカのきっかけって何だっただろう?
そして、今回復したい、和解したい関係ってある?きっとケンカした後って、できれば仲直りしたいって思うよね。でもなかなか自分からは言い出せないし、謝れない。そんなときってあると思うんだ。でも僕はこう思う。相手が来るのを待っているよりも、自分から歩み寄ったほうがよっぽど早い!!ってね。そのとき、苦しさ、痛みを感じるかもしれない。それでも関係は早く回復されるべきものだと思うんだ。だって生きていく中で人が一番悩み、苦しみ、また幸せを感じるのは関係からだからね。みんな「つながり」を求めているんだ。
「キレル」という言葉が一般的に使われるようになったのはこの10年以内だけど、これは感情が切れているという状態ではなくて、決して切れてはならない関係までもが切れてしまっている現実なんだ。それが、生きるうえで、あらゆる関係に影響を及ぼしている。
今日、さっき読んだ聖書のストーリーから、この決して切れてはならない関係があることを見ていきたいと思います。そして、僕たちがまず一番に回復、和解すべき関係がそれなんだ。
本論
このストーリーをもう一度、簡単に話しましょう。
「昔むかし、あるところに金持ちの人がいました。その人には2人の息子がいて、お兄さんの太郎はまじめでお父さんの言うことをなんでも聞く人、弟の次郎はというと怠け者で楽に、そして自由に生きたいと、いつもそればかり考えていました。
ある日、次郎はいいアイデアを考え付きました。それはお父さんの財産の自分が相続する分を今すぐもらって、自由に生きることでした。お父さんは今財産を与えたら、次郎がどうなるかわかっていました。しかし、しきりに頼むで財産の半分、1億円を与えたのです。すると、彼はたちまち荷物をまとめて、都会へと旅たち、自分の生きたいがままに自由に生きたのです。めでたしめでたし・・・とはいかず、後先考えずに友達におごり、金をばら撒いて女と遊んでいるうちに、あっという間に1億円を使い果たしてしまいました。しばらくするとひどい飢饉が起こり、食べ物がなくなってきました。お金がなくなると友達もいなくなり、豚小屋で働くしかなくなりました。豚のエサでさえ食べたくなるほど腹が減り、みじめな自分に悲しくなり、こんなはずではなかったと後悔するばかりでした。
ある時、腹を空かせ豚のえさを見ていると、自分の家のことを思い出しました。「あ~わが家には雇い人でさえ食べ物があまっているのに、自分は・・・。」彼は本心に立ち返って、するべきことを決めたのです。「家に帰って父に謝ろう。そして、息子としてではなく、雇い人としてでもいいから家に入れてくださいと頼もう。」
家が遠くに見え始めると、一人の人が家の方から走りよってくではありませんか。腹ペコでくたくたの次郎は確認する力もありません。しかし、その人は彼に走りより、抱きつき、「息子よ!」と言ったのです。そう、それはお父さんでした。次郎は言おうと思ってたことを言い出すと、父は途中でさえぎり、僕に最上の着物と、指輪と、靴とを用意させ、パーティーの準備をさせたのです。父は帰ってきた息子を「息子」として受け入れたのです。父は毎日毎日、窓からのぞいて息子の帰りを待っていたのです。父はこんな弟息子を愛し、受け入れたのです。」
このストーリーは実は、僕たち全員が回復すべき関係についてのたとえ話なんだ。このお父さんは天のお父さん、つまりすべてを造られた神様(これについては前回お話しましたよね!?)を表していて、その息子は僕たちを表している。
結論
ぼくたち人間はすばらしいもの(僕たちのために造られたすべてのものも含めて)を与えられているのに、そして、すばらしい存在として造られたのに、それに気付かず、欲張り、天の父から離れて生きている。これを聖書は罪と言っているんだ。僕たちを造った神様から離れて生きるということは、造られた目的から離れて生きるということでもある。この罪のせいで僕たちは最高の自分として輝いて生きられないでいる。本心に立ち返り、自分がどんな存在であるのか気付くべきなんだ。どんなにすばらしいものを与えられているか気付くべきなんだ。そして、僕たちを造ってくれた天のお父さんのもとへと戻るとき、どんなに愛されていたのかはっきりとわかるんだよ。
この決してキレてはならない関係を回復するためにイエス・キリストは来たんだ。僕たちは彼を通してしか天のお父さんのところへは戻れない。僕たちが悔い改めて、父のもとに戻りたいと願うなら、イエスの十字架が橋渡しをしてくれる。イエスを救い主として心に迎えるとき、僕たちは天のお父さんのもとにもどれるんだよ!!
招き
天のお父さんはあなたを愛しているよ。あなたが帰ってくるのを待っているよ。愛する息子・娘として受け入れてくれるよ。そのままの君を待っているんだ。自分で一生懸命にきれいなって、立派になってから帰らなくていい。今のままでいいんだよ!!天のお父さんが最高の着物と指輪と靴を用意してくれているんだから!!その道をイエスが用意してくれているよ。十字架の愛と赦しによってね!
これはとてもすばらしいことなんだよ!あなたが本来あるべき自分、愛されているすばらしい自分、輝いている自分になるために天のお父さんのもとに帰る必要があるんだ。そして、そうすることは人生において最高の決断だと言えるんだ!だから、あなたもぜひ立ち返って、神様=天のお父さんのもとへ戻ろう!
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