現在、大阪で牧師の働きをしているHide牧師(元旭川ナザレン宣教師)によるメッセージと
現在中高科の主任教師であるAyumi先生によるメッセージです。
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Youth Worship メッセージ 2006年5月28日
「BC+AD=History」 大窪秀幸
ハレルヤ!みんなは昨日は何をしてた?天気のいい日って何をしたいと思いますか?僕はやっぱり外へ出て、太陽を浴びて、風を感じて、外で何かをしたいなって思います。昨日は何人かとキャッチボールやフリスビー、シャボン玉をして遊びました。エクササイズ、体動かすっていいですね。とっても健康的で体にいいものです。でも忘れてはいけないのは、心のエクササイズです。今日もみことばによって心のエクササイズをしましょう。みことばには力があり、また命があります。
聖書
「わたしは道であり、真理であり、命である。誰でもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない。」 ヨハネ14:6
僕たちは今21世紀、2006年を生きています。この年号は何を基準にしているんだろう?紀元前は英語でB.C.と書くよね。これはBefore Christ、つまり「キリスト以前」という意味です。そして紀元後はラテン語でA.D.と書き、これはAnno Domini(主の年)、すなわち「主が来られてから」という意味です。だから、2006年とはイエスさまが来られてから2006年目という意味なのです。また「歴史」を英語でHistoryと書くけど、これはHis Storyを短縮したものです。Hisとは、まさにイエス・キリストを指しているのです。すなわち、歴史とはイエス・キリストのストーリーであり、歴史の中心はイエス・キリストご自身であるということなのです。これは多くの学者が認めてきたということです。
それでは、イエス・キリストは歴史上で何をしたのでしょうか?なぜ歴史の中心されているのでしょうか?それは、イエス・キリストこそ、人間をその罪から(神との対立から)救ってくれる救い主だからです。
「この方以外には、だれによっても救いはありません。天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人に与えられてないからです。」使徒4:12
ある人が道を歩いていると、足をすべらせて深い井戸に落ち込んでしまいました。彼は水の中でおぼれかかり、大声を出して助けを求めました。すると一人の白髪の老人が
「こどもよ、どうしたのか」
と聞くのです。そこで、
「はい、私は落ちてしまったのです」
と答えると、老人は、
「あなたがもし私の教えをよく守っていたのなら、落ちることはなかったろうに」
と言って去ってしまいました。この人は孔子でした。もう一人の老人が、「子よ、どうしたのか」
「はい、落ちてしまいました」
「静かに目を閉じて瞑想しなさい」
そこで彼は目を閉じたのですが、水を飲み、おぼれ苦しみながら目を上げると、すでにその老人も去ってしまっていました。この人は釈迦でした。次に、もう一人の人が来ました。この人は憐れみに満ちた声で、
「子よ、どうしたのか」
「不注意のために落ちてしまったのです」
この言葉を聞くや、すぐにこの人は井戸の中まで降りてきて、彼を力強い手で捕まえ、上まで上げてくれました。それから優しく彼の手を取って、「さぁ、子どもよ、これからは再び落ちることのないように、私と一緒に歩いていこう」と言われました。この人こそ、イエス・キリストなのです。(藤本光悦 著「あなたも自由になる」より引用)
今日はじめに読んだ聖書の箇所で「わたしが道であり、真理であり、命である」とイエスは言われました。井戸に落ちた人を救うためには、具体的な行動でその人を救い上げなければなりません。イエス・キリストは具体的に人間の救いのための行動を取ってくださったのです。
まず、イエスは「道」であると言われました。イエスだけが唯一の救いの道であり、私たちが歩むべき道なのです。それを具体的に表すためにイエスは神であるにもかかわらず、人間のように地上に生まれ、人間と共に歩まれたのです。神が人間になってこられたのがイエス・キリストです。そして、それゆえに神と人間をつなぐブリッジ(橋)になったのです。イエスさまという橋を渡って、天の父のもとへ行けるのです。彼だけが揺るがない確かな道なのです。私たちはその道を自分の力で切り開くことはできないのです。
そして、イエスは「真理」です。辞書によると、一点の疑いも無く、ありありとしたリアリティを伴って信じられる概念。また矛盾を含まないものです。真理とは絶対に変わらない真実なことです。日本の国立国会図書館の貸し出しカウンターの上には、日本語とギリシャ語で「真理はあなたがたを自由にする」という聖書のことばが掲げられています。イエスは真理である、真理は自由にする、イエスは私たちに自由を与えるために来たのです。イエスは変わることのない愛と赦しを具体的に表すために十字架にかかり死んでくれたのです。そして、「彼を受けいれた者、すなわち、その名を信じた人々には、彼は神の子となる力を与えたのである。」ヨハネ1:12 この変わらない、裏切らない真実な約束を与えてくれているのです。そして、この真理のことば、みことばによって私たちはさらに自由にされるのです。
そして、イエスは「命」です。人は悪いことをせずにいられますか?という問いにほとんどの人は「No」と答えます。人はみな罪びとです。それは神様から離れて生きるという、本来の目的からまったく的外れな生き方だからです。そして、それは死んだ状態であるのです。生きるべく道に歩んでいないからです。イエスは自分の命を捧げて、私たちの罪の身代わりとなり、私たちと神の関係の和解を与えてくださったのです。それだけでなく、新しい命、永遠の命を約束してくれたのです。イエスは自分を通して、私たちが神のもとへ行けるように、具体的にそれを表してくれたのです、彼の地上での生涯と十字架で捧げた命をもって・・・。みんなは天国に行きたいですか?イエスだけが神と人の間に立ち、それを可能にしてくれるのです!!
イエスは絶対に変わらない愛と赦しを示してくれました。ゆるぎない真理を示し、新しい命を与え、自ら道となり、救いを私たちに具体的に与えてくれているのです。
あなたにもイエスさまが必要なのです。イエスさまを信じてください、あなたの罪の身代わりとなって死んでくれたことを。そして、心に受け取ってください、イエスさまの愛と赦しを。絶対に変わらないもの、間違いのないもの、そして、絶対に切れることのない関係。イエスさまだけが与えてくれるのです。今日あなたも受け取りませんか?あなたがあなたらしく輝いて生きるために!あなたが自由にすばらしい、より良い人生を生きるために!!
「BC+AD=History」 大窪秀幸
ハレルヤ!みんなは昨日は何をしてた?天気のいい日って何をしたいと思いますか?僕はやっぱり外へ出て、太陽を浴びて、風を感じて、外で何かをしたいなって思います。昨日は何人かとキャッチボールやフリスビー、シャボン玉をして遊びました。エクササイズ、体動かすっていいですね。とっても健康的で体にいいものです。でも忘れてはいけないのは、心のエクササイズです。今日もみことばによって心のエクササイズをしましょう。みことばには力があり、また命があります。
聖書
「わたしは道であり、真理であり、命である。誰でもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない。」 ヨハネ14:6
僕たちは今21世紀、2006年を生きています。この年号は何を基準にしているんだろう?紀元前は英語でB.C.と書くよね。これはBefore Christ、つまり「キリスト以前」という意味です。そして紀元後はラテン語でA.D.と書き、これはAnno Domini(主の年)、すなわち「主が来られてから」という意味です。だから、2006年とはイエスさまが来られてから2006年目という意味なのです。また「歴史」を英語でHistoryと書くけど、これはHis Storyを短縮したものです。Hisとは、まさにイエス・キリストを指しているのです。すなわち、歴史とはイエス・キリストのストーリーであり、歴史の中心はイエス・キリストご自身であるということなのです。これは多くの学者が認めてきたということです。
それでは、イエス・キリストは歴史上で何をしたのでしょうか?なぜ歴史の中心されているのでしょうか?それは、イエス・キリストこそ、人間をその罪から(神との対立から)救ってくれる救い主だからです。
「この方以外には、だれによっても救いはありません。天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人に与えられてないからです。」使徒4:12
ある人が道を歩いていると、足をすべらせて深い井戸に落ち込んでしまいました。彼は水の中でおぼれかかり、大声を出して助けを求めました。すると一人の白髪の老人が
「こどもよ、どうしたのか」
と聞くのです。そこで、
「はい、私は落ちてしまったのです」
と答えると、老人は、
「あなたがもし私の教えをよく守っていたのなら、落ちることはなかったろうに」
と言って去ってしまいました。この人は孔子でした。もう一人の老人が、「子よ、どうしたのか」
「はい、落ちてしまいました」
「静かに目を閉じて瞑想しなさい」
そこで彼は目を閉じたのですが、水を飲み、おぼれ苦しみながら目を上げると、すでにその老人も去ってしまっていました。この人は釈迦でした。次に、もう一人の人が来ました。この人は憐れみに満ちた声で、
「子よ、どうしたのか」
「不注意のために落ちてしまったのです」
この言葉を聞くや、すぐにこの人は井戸の中まで降りてきて、彼を力強い手で捕まえ、上まで上げてくれました。それから優しく彼の手を取って、「さぁ、子どもよ、これからは再び落ちることのないように、私と一緒に歩いていこう」と言われました。この人こそ、イエス・キリストなのです。(藤本光悦 著「あなたも自由になる」より引用)
今日はじめに読んだ聖書の箇所で「わたしが道であり、真理であり、命である」とイエスは言われました。井戸に落ちた人を救うためには、具体的な行動でその人を救い上げなければなりません。イエス・キリストは具体的に人間の救いのための行動を取ってくださったのです。
まず、イエスは「道」であると言われました。イエスだけが唯一の救いの道であり、私たちが歩むべき道なのです。それを具体的に表すためにイエスは神であるにもかかわらず、人間のように地上に生まれ、人間と共に歩まれたのです。神が人間になってこられたのがイエス・キリストです。そして、それゆえに神と人間をつなぐブリッジ(橋)になったのです。イエスさまという橋を渡って、天の父のもとへ行けるのです。彼だけが揺るがない確かな道なのです。私たちはその道を自分の力で切り開くことはできないのです。
そして、イエスは「真理」です。辞書によると、一点の疑いも無く、ありありとしたリアリティを伴って信じられる概念。また矛盾を含まないものです。真理とは絶対に変わらない真実なことです。日本の国立国会図書館の貸し出しカウンターの上には、日本語とギリシャ語で「真理はあなたがたを自由にする」という聖書のことばが掲げられています。イエスは真理である、真理は自由にする、イエスは私たちに自由を与えるために来たのです。イエスは変わることのない愛と赦しを具体的に表すために十字架にかかり死んでくれたのです。そして、「彼を受けいれた者、すなわち、その名を信じた人々には、彼は神の子となる力を与えたのである。」ヨハネ1:12 この変わらない、裏切らない真実な約束を与えてくれているのです。そして、この真理のことば、みことばによって私たちはさらに自由にされるのです。
そして、イエスは「命」です。人は悪いことをせずにいられますか?という問いにほとんどの人は「No」と答えます。人はみな罪びとです。それは神様から離れて生きるという、本来の目的からまったく的外れな生き方だからです。そして、それは死んだ状態であるのです。生きるべく道に歩んでいないからです。イエスは自分の命を捧げて、私たちの罪の身代わりとなり、私たちと神の関係の和解を与えてくださったのです。それだけでなく、新しい命、永遠の命を約束してくれたのです。イエスは自分を通して、私たちが神のもとへ行けるように、具体的にそれを表してくれたのです、彼の地上での生涯と十字架で捧げた命をもって・・・。みんなは天国に行きたいですか?イエスだけが神と人の間に立ち、それを可能にしてくれるのです!!
イエスは絶対に変わらない愛と赦しを示してくれました。ゆるぎない真理を示し、新しい命を与え、自ら道となり、救いを私たちに具体的に与えてくれているのです。
あなたにもイエスさまが必要なのです。イエスさまを信じてください、あなたの罪の身代わりとなって死んでくれたことを。そして、心に受け取ってください、イエスさまの愛と赦しを。絶対に変わらないもの、間違いのないもの、そして、絶対に切れることのない関係。イエスさまだけが与えてくれるのです。今日あなたも受け取りませんか?あなたがあなたらしく輝いて生きるために!あなたが自由にすばらしい、より良い人生を生きるために!!
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