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現在、大阪で牧師の働きをしているHide牧師(元旭川ナザレン宣教師)によるメッセージと 現在中高科の主任教師であるAyumi先生によるメッセージです。
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「心のピント合わせ」   2006年7月16日



同じことを経験したり、同じ物を見ても、同じ言葉を聞いても人によって反応が違うことがありますよね。ぼくたちにはそれぞれ違った物事の見方をもっています。反応の仕方も違います。そして、それが実際にぼくたちの生き方にどのように影響しているのだろうか?みんなは今状況に動かされているだろうか?それとも自分が状況を動かしているだろうか?それとも神様に委ねているだろうか?

わたしたちが生きている間はいろんな苦労や苦難があるでしょう。それは、わたしたちにはどうすることもできないことです。それはむこうから勝手にやってくるのですから。ではわたしたちには、どうすることができるのでしょうか?それは、今日わたしたちの心のピントをあわせることです。



聖書 エペソ1:17~19

「17どうか、わたしたちの主イエス・キリストの神、栄光の源である御父が、あなたがたに知恵と啓示との霊を与え、神を深く知ることができるようにし、18心の目を開いてくださるように。そして、神の招きによってどのような希望が与えられているか、聖なる者たちの受け継ぐものがどれほど豊かな栄光に輝いているか悟らせてくださるように。19また、わたしたち信仰者に対して絶大な働きをなさる神の力が、どれほど大きなものであるか、悟らせてくださるように。」



  これはパウロのエペソにいるクリスチャンにむけた祈りの言葉です。パウロはここで「祈りの度にあなたがたのことを思い起こし・・」(16節)と言っています。さっき読んだ箇所をみるとわかりますが、パウロは「迫害がなくなるように」、「富と栄誉で豊かになるように」とは祈っていません。しかしパウロはここで3つのことを祈っています。

1. 神を深く知れるようにe愛と赦しの方

2. 心の目が開かれ、神の与えている希望がどんなものか悟れるように

e神様の視点からものを見る、そして、決断する

3. 神の力の絶大さを知れるようにe低く見積もってはいけない



  先週の話にあったように神様の方法はユニークであり、わたしたちには分かりづらいときもあるかもしれない。でも、確かに神様はその祈りの1つ1つを聞いてくださっている。「わたしの恵みはあなたに対して十分である」と。このパウロの祈りはエペその人たちだけではなく、わたしたちも必要としているのではないでしょうか?わたしたちは神様を低く見積もってはいないだろうか?

  心のピントを合わせるとは、すなわち、わたしたちの心を神様に合わせるということです。いつも神様に焦点をあてるということです。どうして、これがたいせつなのだろう?ピントがあってないとぼやけてはっきりと見ることができなくなります。わたしたちの心のピントが合ってないと同じように、物事をはっきりと見ることができなくなります。今、心のピントはどこに合っているだろう?



1. 自分自身(容姿、功績、地位)a劣等感、自己嫌悪

  ・ある基準に達してないとダメな人間

2. 過去の経験 a恐れ、不安、現在をうまく見れなくなる

・失敗者は愛される資格なし

3. 現在の状況 a不安、将来に希望をもてなくなる

・他人に認めてもらわなきゃダメな人間

・今のたいせつさを見失う

・ 結局自分は変われない、だからどうでもいいや



  インターネットでこんな詩を見つけました、



心の中にあるピントが
いつからか、ずれたまま直らない。
直そうと必死に、足掻いても足掻いても
よけいずれてしまう。
焦点に合ってないものだから、
撮りたいものも、うまく撮れない。
こんなぼやけた情景じゃなくて、色のない情景じゃなくて
鮮明に写った、色の付いたあのままを、撮れるような心が欲しい。
   作詩:奈々さん



  こうしてピントが少しずれるとだんだん間違った自己認識、不満、批判をおぼえるようになります。

  今日、みんなの人生の焦点、こころの焦点はどこにあるでしょうか?ピントはしっかりと合っているでしょうか?もし、わたしたちのこころのピントが自分自身に合っているなら、わたしたちは自分の弱さや失敗を見たときに失望してしまう。確かにそれらを見、知ることはたいせつ。でも、神様にピントを合わせて、それらを見るときにはっきりと見えてくることがある。神様の視点で物事を見れるようになる。それは、神様の恵みはわたしたちには十分だよってことです。どんなチャレンジもチャンスと見れるようになるんですよ。過去の苦しみもいたみも、今の不安も悲しみも、すべて感謝できるようになる。わたしたちの心がいつも神様の方を向き、ピントを合わせるなら、わたしたちは神様の恵みの大きさを知ることでしょう。ピントを合わせるとは神様がどんな方かをまず知ること、そして、信頼することです。わたしたちを最高に愛し、ワンダフルな存在と言ってくれる。そして、わたしたちにすばらしい計画と目的を持って導いてくれる。そんな神様に今ピントを合わせて、すべて委ねてみませんか?そして、いつも共にいて、愛してくれる、神様の恵みを味わいませんか?
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Youth Worship メッセージ 2006年5月28日

「BC+AD=History」 大窪秀幸



ハレルヤ!みんなは昨日は何をしてた?天気のいい日って何をしたいと思いますか?僕はやっぱり外へ出て、太陽を浴びて、風を感じて、外で何かをしたいなって思います。昨日は何人かとキャッチボールやフリスビー、シャボン玉をして遊びました。エクササイズ、体動かすっていいですね。とっても健康的で体にいいものです。でも忘れてはいけないのは、心のエクササイズです。今日もみことばによって心のエクササイズをしましょう。みことばには力があり、また命があります。



聖書

「わたしは道であり、真理であり、命である。誰でもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない。」  ヨハネ14:6



僕たちは今21世紀、2006年を生きています。この年号は何を基準にしているんだろう?紀元前は英語でB.C.と書くよね。これはBefore Christ、つまり「キリスト以前」という意味です。そして紀元後はラテン語でA.D.と書き、これはAnno Domini(主の年)、すなわち「主が来られてから」という意味です。だから、2006年とはイエスさまが来られてから2006年目という意味なのです。また「歴史」を英語でHistoryと書くけど、これはHis Storyを短縮したものです。Hisとは、まさにイエス・キリストを指しているのです。すなわち、歴史とはイエス・キリストのストーリーであり、歴史の中心はイエス・キリストご自身であるということなのです。これは多くの学者が認めてきたということです。

それでは、イエス・キリストは歴史上で何をしたのでしょうか?なぜ歴史の中心されているのでしょうか?それは、イエス・キリストこそ、人間をその罪から(神との対立から)救ってくれる救い主だからです。

「この方以外には、だれによっても救いはありません。天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人に与えられてないからです。」使徒4:12



ある人が道を歩いていると、足をすべらせて深い井戸に落ち込んでしまいました。彼は水の中でおぼれかかり、大声を出して助けを求めました。すると一人の白髪の老人が

「こどもよ、どうしたのか」

と聞くのです。そこで、

「はい、私は落ちてしまったのです」

と答えると、老人は、

「あなたがもし私の教えをよく守っていたのなら、落ちることはなかったろうに」

と言って去ってしまいました。この人は孔子でした。もう一人の老人が、「子よ、どうしたのか」

「はい、落ちてしまいました」

「静かに目を閉じて瞑想しなさい」

そこで彼は目を閉じたのですが、水を飲み、おぼれ苦しみながら目を上げると、すでにその老人も去ってしまっていました。この人は釈迦でした。次に、もう一人の人が来ました。この人は憐れみに満ちた声で、

「子よ、どうしたのか」

「不注意のために落ちてしまったのです」

この言葉を聞くや、すぐにこの人は井戸の中まで降りてきて、彼を力強い手で捕まえ、上まで上げてくれました。それから優しく彼の手を取って、「さぁ、子どもよ、これからは再び落ちることのないように、私と一緒に歩いていこう」と言われました。この人こそ、イエス・キリストなのです。(藤本光悦 著「あなたも自由になる」より引用)



今日はじめに読んだ聖書の箇所で「わたしが道であり、真理であり、命である」とイエスは言われました。井戸に落ちた人を救うためには、具体的な行動でその人を救い上げなければなりません。イエス・キリストは具体的に人間の救いのための行動を取ってくださったのです。



まず、イエスは「道」であると言われました。イエスだけが唯一の救いの道であり、私たちが歩むべき道なのです。それを具体的に表すためにイエスは神であるにもかかわらず、人間のように地上に生まれ、人間と共に歩まれたのです。神が人間になってこられたのがイエス・キリストです。そして、それゆえに神と人間をつなぐブリッジ(橋)になったのです。イエスさまという橋を渡って、天の父のもとへ行けるのです。彼だけが揺るがない確かな道なのです。私たちはその道を自分の力で切り開くことはできないのです。

そして、イエスは「真理」です。辞書によると、一点の疑いも無く、ありありとしたリアリティを伴って信じられる概念。また矛盾を含まないものです。真理とは絶対に変わらない真実なことです。日本の国立国会図書館の貸し出しカウンターの上には、日本語とギリシャ語で「真理はあなたがたを自由にする」という聖書のことばが掲げられています。イエスは真理である、真理は自由にする、イエスは私たちに自由を与えるために来たのです。イエスは変わることのない愛と赦しを具体的に表すために十字架にかかり死んでくれたのです。そして、「彼を受けいれた者、すなわち、その名を信じた人々には、彼は神の子となる力を与えたのである。」ヨハネ1:12 この変わらない、裏切らない真実な約束を与えてくれているのです。そして、この真理のことば、みことばによって私たちはさらに自由にされるのです。

そして、イエスは「命」です。人は悪いことをせずにいられますか?という問いにほとんどの人は「No」と答えます。人はみな罪びとです。それは神様から離れて生きるという、本来の目的からまったく的外れな生き方だからです。そして、それは死んだ状態であるのです。生きるべく道に歩んでいないからです。イエスは自分の命を捧げて、私たちの罪の身代わりとなり、私たちと神の関係の和解を与えてくださったのです。それだけでなく、新しい命、永遠の命を約束してくれたのです。イエスは自分を通して、私たちが神のもとへ行けるように、具体的にそれを表してくれたのです、彼の地上での生涯と十字架で捧げた命をもって・・・。みんなは天国に行きたいですか?イエスだけが神と人の間に立ち、それを可能にしてくれるのです!!



イエスは絶対に変わらない愛と赦しを示してくれました。ゆるぎない真理を示し、新しい命を与え、自ら道となり、救いを私たちに具体的に与えてくれているのです。



あなたにもイエスさまが必要なのです。イエスさまを信じてください、あなたの罪の身代わりとなって死んでくれたことを。そして、心に受け取ってください、イエスさまの愛と赦しを。絶対に変わらないもの、間違いのないもの、そして、絶対に切れることのない関係。イエスさまだけが与えてくれるのです。今日あなたも受け取りませんか?あなたがあなたらしく輝いて生きるために!あなたが自由にすばらしい、より良い人生を生きるために!!
Youth Worship Message May 21, 2006

「キレてはならない関係!?」ルカ15:11~24



挨拶

ハレルヤ♪旭川でもやっと桜が満開になったね~。例年よりもだいぶ遅い気がするけど、満開の桜を見てホッとしました。でも、最近暑くて、なんか春よりも先に夏を感じてしまってたりもするけど・・・(笑)

そして今日も熱い聖書のメッセージに耳と心を傾けていきたいと思います★日差しで体は暑くなるけど、心は暑くはならない。だけど、聖書のメッセージはこの心を熱くします!!



朗読

ルカ15:11~24 「放蕩息子のたとえ話」



序論

今、誰かとケンカしてる人いませんか?今はしてなくても、何度かはみんなしたことがあるでしょ?そのとき、ケンカのきっかけって何だっただろう?

そして、今回復したい、和解したい関係ってある?きっとケンカした後って、できれば仲直りしたいって思うよね。でもなかなか自分からは言い出せないし、謝れない。そんなときってあると思うんだ。でも僕はこう思う。相手が来るのを待っているよりも、自分から歩み寄ったほうがよっぽど早い!!ってね。そのとき、苦しさ、痛みを感じるかもしれない。それでも関係は早く回復されるべきものだと思うんだ。だって生きていく中で人が一番悩み、苦しみ、また幸せを感じるのは関係からだからね。みんな「つながり」を求めているんだ。

「キレル」という言葉が一般的に使われるようになったのはこの10年以内だけど、これは感情が切れているという状態ではなくて、決して切れてはならない関係までもが切れてしまっている現実なんだ。それが、生きるうえで、あらゆる関係に影響を及ぼしている。

今日、さっき読んだ聖書のストーリーから、この決して切れてはならない関係があることを見ていきたいと思います。そして、僕たちがまず一番に回復、和解すべき関係がそれなんだ。



本論

このストーリーをもう一度、簡単に話しましょう。

「昔むかし、あるところに金持ちの人がいました。その人には2人の息子がいて、お兄さんの太郎はまじめでお父さんの言うことをなんでも聞く人、弟の次郎はというと怠け者で楽に、そして自由に生きたいと、いつもそればかり考えていました。

ある日、次郎はいいアイデアを考え付きました。それはお父さんの財産の自分が相続する分を今すぐもらって、自由に生きることでした。お父さんは今財産を与えたら、次郎がどうなるかわかっていました。しかし、しきりに頼むで財産の半分、1億円を与えたのです。すると、彼はたちまち荷物をまとめて、都会へと旅たち、自分の生きたいがままに自由に生きたのです。めでたしめでたし・・・とはいかず、後先考えずに友達におごり、金をばら撒いて女と遊んでいるうちに、あっという間に1億円を使い果たしてしまいました。しばらくするとひどい飢饉が起こり、食べ物がなくなってきました。お金がなくなると友達もいなくなり、豚小屋で働くしかなくなりました。豚のエサでさえ食べたくなるほど腹が減り、みじめな自分に悲しくなり、こんなはずではなかったと後悔するばかりでした。

ある時、腹を空かせ豚のえさを見ていると、自分の家のことを思い出しました。「あ~わが家には雇い人でさえ食べ物があまっているのに、自分は・・・。」彼は本心に立ち返って、するべきことを決めたのです。「家に帰って父に謝ろう。そして、息子としてではなく、雇い人としてでもいいから家に入れてくださいと頼もう。」

家が遠くに見え始めると、一人の人が家の方から走りよってくではありませんか。腹ペコでくたくたの次郎は確認する力もありません。しかし、その人は彼に走りより、抱きつき、「息子よ!」と言ったのです。そう、それはお父さんでした。次郎は言おうと思ってたことを言い出すと、父は途中でさえぎり、僕に最上の着物と、指輪と、靴とを用意させ、パーティーの準備をさせたのです。父は帰ってきた息子を「息子」として受け入れたのです。父は毎日毎日、窓からのぞいて息子の帰りを待っていたのです。父はこんな弟息子を愛し、受け入れたのです。」



このストーリーは実は、僕たち全員が回復すべき関係についてのたとえ話なんだ。このお父さんは天のお父さん、つまりすべてを造られた神様(これについては前回お話しましたよね!?)を表していて、その息子は僕たちを表している。



結論

ぼくたち人間はすばらしいもの(僕たちのために造られたすべてのものも含めて)を与えられているのに、そして、すばらしい存在として造られたのに、それに気付かず、欲張り、天の父から離れて生きている。これを聖書は罪と言っているんだ。僕たちを造った神様から離れて生きるということは、造られた目的から離れて生きるということでもある。この罪のせいで僕たちは最高の自分として輝いて生きられないでいる。本心に立ち返り、自分がどんな存在であるのか気付くべきなんだ。どんなにすばらしいものを与えられているか気付くべきなんだ。そして、僕たちを造ってくれた天のお父さんのもとへと戻るとき、どんなに愛されていたのかはっきりとわかるんだよ。

この決してキレてはならない関係を回復するためにイエス・キリストは来たんだ。僕たちは彼を通してしか天のお父さんのところへは戻れない。僕たちが悔い改めて、父のもとに戻りたいと願うなら、イエスの十字架が橋渡しをしてくれる。イエスを救い主として心に迎えるとき、僕たちは天のお父さんのもとにもどれるんだよ!!



招き

天のお父さんはあなたを愛しているよ。あなたが帰ってくるのを待っているよ。愛する息子・娘として受け入れてくれるよ。そのままの君を待っているんだ。自分で一生懸命にきれいなって、立派になってから帰らなくていい。今のままでいいんだよ!!天のお父さんが最高の着物と指輪と靴を用意してくれているんだから!!その道をイエスが用意してくれているよ。十字架の愛と赦しによってね!

これはとてもすばらしいことなんだよ!あなたが本来あるべき自分、愛されているすばらしい自分、輝いている自分になるために天のお父さんのもとに帰る必要があるんだ。そして、そうすることは人生において最高の決断だと言えるんだ!だから、あなたもぜひ立ち返って、神様=天のお父さんのもとへ戻ろう!
2006年5月14日
「最高の自分」創世記1:26,27,31 大窪秀幸



ハレルヤ!昨日、ワールドカップ前最後の国内戦、サッカー日本対スコットランド戦があったけど、見た?ちょっとワールドカップに不安を感じちゃうよね。でも日本にはがんばってほしいのでみんな応援しよう!

ところでみんなはもう桜咲いてるの見た?やっぱ、きれいだよね桜。偶然じゃありえないよね。誰がこんなきれいな木作ったんだろうね?え、神様?そう、これも神様が造ったんだよね~♪さぁ、今日も神様が造ったもののすばらしさをもっと学んでみましょう。みんな聖書もっていますか?聖書を一緒に開きましょう。自分の目で確かに書いてあることを確認してください。



聖書

創世記1:26,27,31

「26 神はまた言われた、「われわれのかたちに、われわれにかたどって人を造り、これに海の魚と、空の鳥と、家畜と、地のすべての獣と、地のすべての這うものとを治めさせよう。」27 神は自分のかたちに人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された。31 神が造ったすべての物を見られたところ、それは、はなはだ良かった。」



あなたはじぶんに点数をつけるとしたら100点満点中、何点をつけますか?(沈黙・・・聞いてみる。)今あなたはどのように自分を採点した?何を基準に点数をつけたんだろう?

わたしたちは何かできないこと、もってないもの、失敗などをもって自分の評価を下げてしまい、自信をなくし、自らを傷つけてしまってはいないかな?

実はぼくは今まで自分を低く見積もっていました。頭では神様がすばらしく造ってくれたって知っていたんだけど、実際は良くて60点、いや40点くらいの評価を自分に与えていました。だから自分に自信がなく、失敗を繰り返してしまう。どうしようもないくらい、できない自分がいやになり、無気力になったりしてしまう。みんなはどうだろう。

しかし、ぼくは御言葉の中にとてもすごい真理を発見しました。(チャンチャカチャーン♪)それはぼくを自由にしてくれたんです。

「そして真理は、あなたがたに自由を得させるであろう。」

ヨハネ8:32

僕の中で『知っていた事実』が、『発見した真理』へと変わった瞬間でした。それは、自分が、そしてあなたが「100点満点の存在」だということです。



人間は神様によって造られたと聖書は語っています。偶然に進化したのでもなければ、偶然に生まれてきたんでもないんだ。知ってた?神はデザイナーであり、ぼくたちをデザインして、精密に、計画的に、完成品として造ったんだ。

もしあなたに生涯という時間が与えられて、何かひとつの作品を作って欲しいと頼まれたら、最高のものを造ろうと考え、試作を作り、手直ししたり、改良したりして最も良いものを作り出そうとするんじゃないかな?納得するまで作るんじゃないかな?そして、それを自信もって発表できるまで、作り続けるんじゃないだろうか?

神様は無限という時間の中でわたしたちを最高のものとして、納得して、造られたのです!!もし、神様が気にくわなかったのであれば、作り直していたと思わない?でも、もしわたしたちが「神様が仕上げた作品」であるのなら、もっとも良いもの、最高のできばえであるに違いないんだよ。神様はぜったい失敗するお方じゃないんだ。すごいでしょ?

ではどのように造られたのか?

①神様の性質に似せて造られた!進化論の一つの疑問に動物や物体から感情・理性のある人間がでてくるだろうか、というものがあるけど、神様という人格的なお方に似せて造られたのだとしたら、人間がこのように感情を持ち、理性を持って生きていることに何の疑問もないよね。だから、ぼくたちは「愛すること、赦すこと、助け合うこと」などすばらしい性質が与えられているんです。

②目的をもって造られた!人間が作ったすべてのものに目的があるように、神様も一人一人に目的をもって造られたんだ。だから、みんな違う。ぼくの持ってないものをあなたはもっているし、あなたの持っていないものをわたしはもっている。だから、ぼくにはあなたが必要なんです。だからみんなもぼくをもっと必要としてくれていいんですよ(笑)。その目的を果たして生きることが人生において最高の喜びとなるのです。イチローも、中村俊介も、荒川静香も、オリエンタルラジオも、一人ひとりみんな違うけども、与えられた才能を生かして輝いているのです。しかし、それを人のため、社会のため、そして、神様のために生かす人は最高の祝福と喜びを味わうことができるんだ。ぼくたちはお互いを必要としているんだよ。

③「男と女」に造られた!男と女はまったく違う。だから男性は女性に、女性は男性に驚かないでください(笑)しかし、どちらも必要なんです。男性は女性なしには存在しえないし、女性もまた男性なしには存在しえません。だから、男性は男であることを喜びとし、男性に与えられた力を発揮して女性に仕えるべきなんです。女性は女であることを喜びとし、女性に与えられた能力をもって男性に仕えるべきなんです。そのときに必ず喜びを感じることができるから!わたしたちはどこまでいってもお互いを必要としているんだ。

そして、④とてもすばらしく造られた!!100点満点なんですよ!!びっくりでしょう?(笑う)神様は造ったすべてのものを見て「とってもすんばらしい~!ビュ~ティフォ~~♪ワンダフォ~♪」と言われたんです。花見ても、犬見てもワンダフル♪わたしたちも神様に造られたので、ワンダフルなのです!!桜は桜として100点なんだ。花が黄色くないから50点なんておかしい。犬は犬として100点なんだ。木の上に上れないから30点なんておかしい。あなたはあなたとして100点なんだ!何かができないから、何か失敗するから10点なんておかしい。50点?おかしい。99点、おかしい。あなたはあなたとして100点満点なんだ!

ぼくは、「あれできない、あの失敗が・・」というマイナス事項を見つけるという間違った自分の価値基準をもっていました。自分だけではなくほかの人もそのような基準で見ていました。しかし、ぼくたちが持つべき基準は、「神様によって最高に造られた!」という基準なのです。何かができなくても「最高!」なのです。失敗したって「最高!」なのです。造った方がそれで満足だ!最高だ!と言っているんだから。ぼくたちの価値の基準はここにあるんです。そして、生きる意味と目的、そしてその喜びもこれを知り味わうところから始まるんです。



この全世界を造られた神様がわたしたちもとてもすばらしく、目的をもって造ったんだ!!あなたがどんなに自分の価値を低いと思っていても、神様はあなたに100点満点とハナマルをつけてくれる。「できないことがある」、「失敗もする」ぼくたちに、「それでも愛してる!」と語っている。それを知った人は神様を愛するようになり、神様をもっと知るようになり、そして人や社会に貢献したいと願うようになるんです。ん~~神様はすごい!!

ただ神様がひとつ残念だと思っていることは、ぼくたちがそれを知らずに、もしくは受け入れずに生きていることなんです。



自分のすばらしさを受け入れよう!具体的に人のためになれることを1つでも見つけて、それを実践しよう!!そのときに神様が自分をどんなにすばらしく造ってくれたのかもっと分かるようになるよ。そして、もっと自分が好きになれるよ!神様の助けが必要なぼくたちだけど、信じて従うことは賢い決断だよ。すばらしいことだから、ぜひやってみよう!
「感動のある風景」 大窪秀幸 2006年 5月7日

創世記1:1~3



ハレルヤ!1960年代に、宇宙から始めて、地球に人間の声が届きました。それは、アポロ8号の宇宙飛行士たちが地球から数億万キロ離れたつきの周りを回りながら、聞かせてくれた声です。ちょうどクリスマスのイブ、宇宙船の中で、宇宙飛行士たちは、地球上で、耳を傾けている人々にある書物の一部を感動的に、読んでくれました。



「はじめに神は天と地とを創造された。地は形なく、むなしく、やみが淵のおもてにあり、神の霊が水のおもてをおおっていた。神は『光あれ』と言われた。すると光があった。」創世記1:1~3



これは実は聖書のことばなんだ。遠い遠い、ある宇宙空間の小さな宇宙船の中から宇宙飛行士が地球にいる人たちに、感動をもって聖書の中の髪の創造の部分を読んだということは、どんなに意味があることなんだろう。

みんなは自然に感動したことってある?自然を見て、感じて、聞いて、体のすべてで自然を感じるときに、ぼくたちは言葉では言い表せない感動を覚えることがあるよね。ぼくも自然が好きで良くいろんなところへ出向きます。

あるときはなんにもない平原で、そのスケールの大きさに感動し、またあるときは川の流れを1時間ずっと眺めていて、そこに流れる命、また力強さに感動します。満天の星空を見上げるとき、触れることができるのではないかと思えるほどにきらめく星々。どこまでも果てしなく続く宇宙。そして、一度くらいは考えたことがあると思う。「どうして、このようなことが可能なのだろうかと。」

なぜわたしたちは自然を見て感動するんだろう。自然を感じるときに、そこに流れる命と力強さを感じるのだろうし、また自分の小ささに気付くこともあるだろうね。また、その美しさに?それもあるね。その壮大さにだろうか?それもある。だけど、ぼくたちは実はこの自然を造られた方に感動しているんだ!!



聖書の最初のページを開くと、

「初めに神は、天と地とを創造された。」創世記1:1

と宣言されている。この世界はどのようにして始まったのか・・・聖書ははっきりと答えを与えてくれます。「神が天地を造られた!!」と。そこでわたしたちには疑問が起こります。はたして神は本当にいるのか?と。

人間は、誰でもその心のなかで、神を認める信仰をもっている。誰に教えられたわけでもなく、どこの小さな部落の民族へ行っても必ず信仰している神がいるのはそのためなんだ。神を拝まない民族はいつの時代にもいなかった。ただ、その真の神、全世界の創造者である神を知らないので、多くの人が迷っているんだ。

科学技術の発展ともに迫ってきた宇宙物理学の最先端の結論は「宇宙はデザインされている」ということなんだ。宇宙や地球を見ても、設計者がいるとしか考えられないほど精密にできている。そして、それは人間が存在できるように、すべてが美しく秩序立ってパーフェクトにデザインされているんだ!重力は10の55乗分の1、電磁力は10の37乗分の1の確立という奇跡のバランスを保っている。それはどんな確率かというと・・・

1/1055e富士山の頂上から東京まで届く長い刀の刃の上を、ピンポン球が落ちずに転がっていく確率。

    1/1037e北米大陸10個分の面積全体を10円玉で敷き詰め、それを付きに届く距離の高さまで積み上げ、その中の1つだけ赤く塗って、目隠しした人がすべての中から、赤く塗ったコインを一発で取り出す確立。

うん・・とにかく偶然ではありえないってことだ!!



ぼくたちは学校教育で進化論を教えられるけど、そこには多くの疑問とむなしさが残る。進化論では、宇宙の起源は物質と考えているよね。宇宙と人間の起源が、水、火、土、空気、原子、、アメーバのようなものから始まり、今日のような世界ができたと言うけど、本当にそうだろうか?



疑問① もしも、宇宙が「何か」から始まったのだとしたら、その「何か」とはどこから来たのか?

疑問② はたして、物質の中から、感情や愛情などをもった人格的な存在が生まれてくることがあるのか?

疑問③ もしも、進化論が事実であるとすれば、すべては偶然であり、人生や宇宙に何の意味があるのだろうか?



当たり前のことのように教えられてきた進化論は、1つの仮説にすぎず、証明された事実ではありません。実際、これを考えだしたチャールズ・ダーウィンは死の間際にその事実を認め、「世界にはすべてを創造された神がいる」と自らの学説を覆している。もしも、神がいないとしたら、宇宙や人間の始まりをどのように説明したらいいのだろうか?

自然界の仕組みが秩序正しいことは、だれもが認める事実です。しかし、それがどのようにできたかについては、信仰によって知るしかありません。地球が造られたとき、だれもそこに居合わせなかったからです。科学者もそれを認め、神を信じる人がたくさんいます。「聖書の教えが科学の世界も含めて、全世界の存在の意味をあきらかにしているからだ」と、ある博士は語っています。

人間は自分の造り主を知るまでは、自分の存在の目的も分からず、さまよっている。ぼくたちは、自分の造り主を知ったとき、初めて、自分がどこから来て、何のために生き、どこへ行くのか、すべてがわかるんだ。神はあなたが神を知ろうとしていることよりももっと強く、神ご自身があなたに知られることを望んでいるんだよ!

神様はいろんな方法でご自身を現してくれているんだ。その1つが自然です。わたしたちが自然に感動するのは、そこに神が創造され吹き込まれた命があるからです。人間の造ったものには命がありません。すべてを造られた神、創造者がいる!その方を知り、関係をもつことがわたしたちにとって大事であり、神もそれを心から願っているんだ。それは、自分の存在を知ることであり、目的を知ることだからです。さぁ、目を上げて周りを見回してみてよ。すべてがあなたのためにデザインされてできた世界なんだ。今、あなたの眼には世界がどのように映し出されているだろうか?むなしく、さみしく、映し出されている?すべてが美しく、パーフェクトにあなたのためにデザインされているんだ!!それは神があなたを愛しているからなんだ!この神様にはいつ、どこででも出会うにことができるんだよ。あなたが感動するそのとき、偉大なる創造者を感じてみてよ。そこはきっとあなたの人生において最高の感動のある風景として、心刻まれるよ。
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